過去からの抵抗

戦前戦中・敗戦直後の人々の反戦・不敬発言を紹介。

1937年7月分 反戦・不敬発言傑作選 6事例

1937年(昭和十二年)

6月、近衛内閣組閣

 7月、「北支事変」勃発

この月より特高月報は庶民の発言を収録し始める…。

尚、この記事では七月分に載った発言全てを収録した。

 

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1937年7月分

左翼分子の反戦的策動其他調

 

1

岡山県 反戦的策動 綱島辰吉 (25)

七月十九日自己の営業広告と共に「前略・・・・誰人も平和を希求しないものはないと信じます、第一次世界大戦の悲しむべき惨害は全人類に何を教示しているのでせうか、而してその結果は全勤労大衆に何を与えたでしょうか?・・・・後略」と記載せる印刷物千五百部を作成し、同日約五百部を新聞紙に折込み都窪郡早島町、妹尾町の一部に頒布せり。

(残部を押収すると共に即日本人を検挙し出版法違反として送局す)

 

2

石川県 反戦的策動 金沢一般労働組合常任、社大金沢支部執行委員 布目芳一 外四名

七月十六日夜金沢市尻坂通り野村康雄方に会合し北支事変に関する意見の交換を為したるがその際 

(イ)今度戦争となれば日支間の経済的打撃は非常に大きいものであるから我々無産者は苦しみを受けることを覚悟せねばならぬ。 

(ロ)従って無産者の態度は戦争反対であることは言を俟たない。 

(ハ)戦争になれば我々の生命自由が保障せられないことは余りにも明かであるから我々は主義に殉ずる為の凡有心構へが必要である。 

等と極めて注意を要する言動を為したり

(動向注意中)

 

3

石川県 反軍的言動  石川県立図書館長 中田邦造

七月十日左翼分子の時事懇談会(会員九名出席)において講師として出席し、左の如き反戦的講演を為したり 

上海事変当時日本の陸戦隊は生きている支那民衆をトラックに積んで海に投じた、これを見ていた支那民衆は何時憤慨することなく日本人に配達する郵便物の如きは実に正確なものであったと云うことである、日本人はまず相手を殴って然る後争うと言う様な具合でこれが為支那群衆の反感を受け遂には袋叩きにされることが日本人に対する暴行として伝えられているらしく今や支那民衆の抗日感情は想像以上である云々

(本人に対し厳重に戒告す)

 

 

4

岡山県 反戦的造言 売薬行商 小野義夫 (32)

七月二十一日岡山県小田郡今井村塩飽末野に対し

(イ)最近の支那兵はなかなか強く日本兵が相当殺されている、それに今度の戦争はロシヤ、アメリカ等も支那を援助するから戦争は大きくなるばかりだ。 

(ニ)日本は半年ぐらいの戦争で金は無くなってしまう、大和魂があっても金が無ければ戦争は負ける敗戦になると敵の飛行機が来て爆弾で老人も女も死んでしまう、

(ハ)大蔵大臣は開戦に反対したが、陸軍大臣が十円の税金が二十円になっても搾り取って戦争すると言って遂に開戦となってしまった、

(ニ)戦争の時の決死隊は志願の様に言っているが願出るものは一人も無く皆命令だ爆弾三勇士も命令で死んだのだ云々

反戦的言動を敢てせり

((一)七月二十二日検挙岡山憲兵部隊に引渡す (二)岡山区裁判所の公判に付され八月五日禁固三月(執行猶予三年)の言渡ありたり)

 

※(イ)の次が(ニ)なのは誤植と思われる

 

5

福島県 反戦的策動 

七月二十七日午前九時頃福島県安達郡大山村大字大江字中田地内東北本線鉄道線路傍の草叢に於て軍帽(十一年製、本廠検定、船越福司)と記名せるもの)一個を拾得したるが該帽の汗取革の裏面にペン字にて「我は「コンミュニスト」なり我は凡ゆる兵に向けて排戦を語らむ、凡て我々は資本閥に欺かれ居るものなり、共産主義万歳、我死を覚悟す、我死を恐れず、我八度生きて七度死なむ、国家とは誠に悲しむべきものなり、「インターナショナル」ありてのみ真の平和あり、」との共産主義反戦字句の記載あり

 

6

石川県 反軍的通信 大連市櫻臺一三九満州日報編集長進治妻 島屋みゆき(29)

石川県鹿島郡中島村小学校長北村力に充て「日本軍隊が盧溝橋に於て夜間演習中一兵士が支那将兵の爲単なる負傷を受けたのが今回事変の原因なるがこの位のことにて日本が何故軍隊を出動して戦争をせねばならぬかと大連地方住民は言っている云々」との反軍的通信ありたり。